先月の末、母親は介護施設に入所しました。
昨年の10月末に脳梗塞を発症、手術とリハビリで42日間の入院でした。
当時、95歳で、中程度の認知症を発症していましたが、退院後は別人のように認知症が進行しての帰宅です。
その後も、日を追うごとに認知症が悪化し、最近では私が自分の子どもであることも、家内が私の妻であることも認識できなくなりました。
70年以上前に亡くなった自分の母親や父親が待っているから、鹿児島の霧島にある自宅に帰ると、朝から晩まで騒いでいます。
たまに大の失禁もあります。ストレスから、家内への暴言や、時に手をあげることもあります。
いつもこの状態なら、もっと早めに施設への入所を決めていたと思います。 多くの認知症の方がそうであるように、正常に近い状態になることもあるのです。 「ごめんね、昨日までは何ともなかったのに、今日になって急に頭がおかしくなったの。2人に迷惑かけてごめんね」と言うのです。
私はこの日に備えて、2年間の介護職の経験を積んでいましたので、認知症対応や排せつ介助は苦になりません。
辛いのは、こんな母親に対してじっくりと話し相手をしてあげられないということです。
これができたら、まだまだ3人での生活は続けられるでしょうし、あるいは自宅での「看取り」もできるかもしれません。
家内も私も仕事を持っています。
「人生100年」までまだ30年ありますので、いまこの仕事を中断することはできません。
足腰は丈夫で、排せつも自力でできます。
目的をもって自室から出てきて、私たちに対話を求めてきますが、仕事中であれば、どうしても、「部屋で待っていてね」と自室に閉じ込めておくことになります。
もはや大好きな阪神タイガーズの野球観戦も、マラソンを応援することもできないし、毎日の日課だった新聞を読むこともできません。
何もできなくなった自覚はあるので、ストレスがたまり、居間で仕事をしている家内の所に五分ごとにやってきます。 多くの時間、事務所よりも自宅で仕事をするようになった私の部屋にもやってきます。
悪循環で、夜中に1~2時間ごとに起きだし、目が覚めたら着替えをして、故郷への帰り支度をはじめます。 「まだ夜中なので、朝になったら出かけようね」と言うと納得してまた就寝してくれます。
夜中がこうであっても、仕事をしていないのなら、夫婦が交互に昼寝をして対応ができるかもしれません。
週4日通っているデイサービスの迎えが来る9時までと、帰ってくる16時以降は、家内は家事を担当し、私が母親対応をしています。
介護は24時間続いていきます。
退院して7ヶ月、こんな生活が続いてきましたが、もう母親も、私たちもお互いに限界かなと、介護施設探しを始めました。 部屋に軟禁状態の現在よりも、施設に入った方が、まだ良いと判断したからです。
介護期間中は、ぎりぎりまで頑張って、どうしてもという時には施設に入れよう、そして、自由な時間が増えたら仕事をバリバリやろうと考えていました。
母親の部屋の片づけをほぼ終えました。
大切にしていたアルバムの写真や手紙はデジタルデータにし、衣類やしまい込んでいた小物など、母親が持っていた物はすべてを処分しました。
思い出って何だろう?
家族って何だろう?
人生って何だろう?
家内と荷物を整理していて、ふと気がつきました。
家内との二人だけの生活は、結婚して長男が生まれるまでの1年間だけだったことを。
私の人生は生きている今のこの瞬間にしかないのかもしれません。 思い出の記憶はアナログデータで、長年使っているうちにうちに消えていきます。
そう気がついたとき、これからは、家内や子どもたち、友との関わりの時間をできるだけ持ちたいと思い到りました。
行政書士の仕事はもちろん続けます。 が、現在メインに取り組んでいる「遺言や相続、任意後見人」を中心業務に特化し、この分野の知見と経験値を深化させます。
毎月開催している「人生100年時代の知恵袋セミナー」も継続します。
数年前から始めた「保護司」の活動も継続します。
間もなく始まるオリンピックのボランティアも全力で!
親の介護って、いろんなことを教えてくれますね。
当事者にならないとわからないことがいっぱいあることを知りました。
入居施設の面会はガラス越しになりますがいつでもOk!
今日も、顔色もよく、元気な笑顔に会えました❣
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